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脱力おばさんの思い出話やつまらない日常を綴るブログ

志村けんの死が消化されにくい理由とは

コメディアン

志村けんの死が消化されにくい理由とは

こんなカプチーノイラストを作った人がいるという。
うーん、上手だけど、似ているかどうかといったら、微妙というか。
コロナショックというか、志村ショックというか、それがじわじわと、広がっているような気がする。

たけしが志村ショックで鬱に

ビートたけしは、ちょっと鬱になったそうである。
今となっては、こんな写真も、もの悲しく見えてくる…。

最後の喜劇人とは、ミッキーマウスのように死なない存在のはずだった

インターネット以降の世界では、芸人もミュージシャンも作家もみな生身の人間であることをわたしたちは実感として知っている。だが、70~80年代にテレビで活躍しその存在を確固たるものにした志村けんというキャラクターは、その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアンの、最後の一人だったのではないだろうか。

 だから私たちは、そういう平板な(これは揶揄ではない)キャラクターが消失してしまったことを上手くイメージできない。ミッキーマウスが生々しく死ぬ場面を想像できないのと同じことだ。

 70年代までの日本には、お茶の間のブラウン管を通し平板なキャラクターたちのドタバタ劇に笑っていられる状況が、良くも悪くもあった。その残滓の消失を、恐らく私たちはいま実感しているのである。
わかりにくく書いてあるが、TVに出る人間は、生々しさはなくていいんだ、アニメのキャラの実写版みたいなものなんだというのが、志村の解釈というか、信念というか、だったのかもしれず、それを貫いた、自分の私生活は、売らなかった、と。
確かに、「ミッキーマウスが生々しく死ぬ場面を想像できない」という言い方は、よくわかるというか、志村けんの死というのは、かなり「消化に困るシロモノ」であり、悲しめばいいのか、カラッと送り出してあげればいいのか、しかし、あの人は死ななかったはずでは…とか、いろいろあるのである。
このごろ、よくドリフを見ているが、見れば見るほど、志村けんという存在と、「死」というものほど、相性の悪いものは、ないような気がしてくるのだった。

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